拝啓、僕の奥さん
送り主は二十歳から何年程かにかんせつてきに親を殺した。すぐに本人も逝くべきであったが、どういうわけか生き延びた。その人が僕の婚約者であった。細糸で繋がった僕らは定期的に手紙を交わした。
――戸を開けると六畳のすぐ脇に2つ、ベッドが置かれている。黒い遮光カーテンがそれぞれに備え付けられてある。バッグを放り投げてそのうち1つに腰掛ける。爪の根元はあいかわらず黒ずんでいる。急いで便箋を広げるとついページの中途に目がとまった。
『ボクがひとりでしてる時にね骨盤の辺りを咬んだ』
『ボクが殺さなければこの蚊はまだ生きることができた』
とペンで書かれてあった。日付は九月二五日と律儀に記されている。その調子に任せて日毎に書かれてあった。
ここから十キロほど山腹に向かって送迎バスを走らせると巨大な工場がみえる。日中そこで僕は旋盤作業をしている。とても給与の良く、同居の支度のためと職を替えた。婚約者の住まいからは幾県と離れていたせいもあり暇あれば相手の気ばかり考えた。それが僕の平日の主だった生き方だった。
実は彼女は死ぬべきだった。共に余生を過ごすことには何ら解決はなかった。十二分に承知しておきながら手を繋げば全く違う道が待ち受けていると断崖から強く信じていた。
――作業着のまま便箋を捲った。じりじりと脳を焦がす痛みが手紙に綴られていた。憤って鼻からため息を吹いた。死ねないのであれば有りたけの快楽を貪る。結婚してしまいそれを封じられると工合いが悪い、と更に書かかれてあった。
鼻をつんざくい草のせいで鼻をすすった。室にはたった一人だと知らされた。すぐにここに誰も来ることはない。一度、手紙から目を離してセピア色のカーテンの間に覗ける暗闇を子供のように素直に見た。
時刻が半分、枕から顔を出していた。きびんな仕草で手を差し入れ時計の盤に目をおとした。二三:三〇。明日の明け方、朝一番で大阪行きのバスに乗る。慌ててバッグに下着や洗面具をつめ込まねば、と思った。天袋から鞄をおろしてあれやこれや支度を始めたが、1つだけ電灯を付け忘れていた。どういうわけかシェービングクリームの缶を握りながら暫く茫然とした。瞬かないでいた瞳はすぐに世界を失った。
<彼女の姿は餓鬼のようではないか>
六年前、姉に見放された。男の助けによってホテルでの生活を送った。のちに国の庇護にようやくあずかった。彼女は漂着することとなった室で毎夜うなだれた。甘い息を吐き毎朝死んだように眠っていた。
いけない生活をやめさせよう。
くちびるを引き締めた。清々しく、それはまるで観念を実在化させる勢いの眉は風の吹くほうを欲した。程無くして瞼に浮かぶは凄い速さで移動する積雲らしかった。
屹立するビルの頭上を、一面に騒々しい雲が覆った。その分厚い雲たちは、背後の陽の光によって憤怒してみせた。
真綿を運ぶ風はやがて街中に下り、渦をつくった。時が来れば温かみを湛えた風は人々の顔をぶった。風はおそらくS駅の改札口から吹き上がった。大阪の北のほうに位置する高架下を立地にした駅舎。改札口の周りは蟻のように人々がうごめいていた。人々は改札口に吸い込まれ又掃き出されては各々の目的に従っていた。そのうち温風を身に受けた幾人かは高架下を逃れて陽の光を含んだ雲空を、晴れやかに見上げた。
「彼女なら認めてくれるはず」
右をむいた。置き忘れた赤い自転車が銀行の植え込みに立て掛けてあった。彼女はいない。僕は慌てて懐かしみのある三叉路を見まわした。辺りを整列する並木には近しい者の残り香が漂っていた。すぐ鼻先のガラス越しには賑やかな談笑がうかがえる。僕のシャツを手入れしてくれたクリーニングの店員のものたちだった。おばさん等は暢気に手などを振ってみせていた。出入口の袂に生えたタンポポが一緒に頭を振っていた。
通り沿いを少し進んだ先の枝分かれをした歩道の隅に彼女はいた。いたというより取り残されていた。欄干の組子の間からのぞけるロゼット状の草と、双子のようにうずくまっていた。グレーのスエットを履きボーダーのシャツと痩せすぎる風貌。誰とも視線をあわさぬ、と言わんばかりの規則を降ろしていた。通行人の侮蔑など露しらず、彼女の瞳はひねったり裏がえったりする落ち葉を眺めていた。
居所をつきとめて僕はいたずらに不安となる。僕の所からあまりにも遠く感じたからだ。
しんと辺りは静まっていた。
そこにはいつになく耳元を赤らめずに彼女がいた。顎の線に発症したひどいニキビも今日ばかりは澄ましていた。彼女の身は一人の時こそこうも落ち着く。辺りで戦争が起き、または幾多のものの熱い抱擁が交わされたところで――むろん僕がどうなろうと――彼女のひとみは1つのことに掛かり切りだ。心は遠い昔、不動を決め込んでいるようだった。
見入るほどに彼女を遠くにゆかした。ただその処にいるだけで見事の調和を保っていた。この子はそのような調子で呼吸を黙って繰り返していた。
やがて、済まない様子もなく中年の小太り女や、無頓着にくたびれた登山帽の女の身が視界を遮った。のみならずすぐにピンクのキャリーバッグを引く女までもが横切った。そして手前で信号待ちをする男の輪郭が彼女の姿の何もかもを、丁度見えなくした。
男の股下を、僕の震える瞼は懸命に見据えていた。首をすくめて多くの努力を試みた。が、変に力んだ視界では捉えることは叶わない。信号が変わり男は歩き出した。ひらけた歩道の先には誰もいなかった。
「いつかこうなる」
冷静を装う胸に、声がひびく。
何かが通り抜けた。以前とかわらぬ町並みが趣を変えた。事物から色がなくなった。風から湿気がなくなった。光から優しさが消えた。取り返しのつかない時が無表情で一切を持ち運んだ。どこにも居なかった。声をかけても彼女の返事がない地平が続いていた。張子の身は骨組を撤去されたふうに弛緩した。
どこかで果実が落ちた。つぶれてしまっただけだ。
怒りは遅れて仕事に気づく。自然と体は暴れる。時を引き戻せ、と怒りは体へしむけた。耐え切らない感情が燃焼する。隣人の肩にぶつかろうと懸命に現場まで駆け走った。
着けばこの場所など意味はない。力は入らない。膝から崩れれば手と肘とを地につけた。つけた片肘を支えに自棄になってみた。気恥ずかしさもなくただ嗚咽した。息の苦しかろうとむろん敷かれた煉瓦は沈黙を守っていた。呼吸の仕方の忘れはなおも続いた。汚物が地に広がり、そわそわと小虫は逃げ惑った。鼻から通る吸気に涙の香りがずっとしていた。
目をつむった。深い胸の痛みは、いるはずのない彼女の肉にむかって蔓状に伸びた。あがいていた。暗闇のなか、力のあるかぎり指を広げ、曲げ、彼女の輪郭の肯定にだけつとめた。残像をただひたすら肯定する己がいた。そうして空回りをする自身だけが余った。息切れがしても、それはできるだけ長く続けなければならなかたった。不効率であっても何時までもし続けた。そうして今更、自分というものの身のあり方がわかった。
――――町からは人々が掃ける。残るは、敷かれた煉瓦の継ぎ目より生えた青草のみだろう。
ついそこの片脇に撒かれていた落ち葉の存在感は薄い。もう秋はそこまで迫っている。押し黙った街路樹が空風に吹かれて疎らな影を落としていた。走る車は1台も見当らない。空気に軽みがある。美しく引かれた中央の白線がどこまでも伸びていた。街中は静まり返っていた。まるで見慣れた亡霊が日向ぼっこをしている優しさがそこにはあった。
少しだけ猫背の僕は、呼吸をしているかどうか定かではないほどに長閑だった。すでに眉の緊張はほどかれている。陽を受けた額はいくぶん皺がなくなり晴れやかだ。空虚ではない落ち着きがそこにはあった。他方、鼓動は慌ただしいリズムを刻み血球は涼やかに身体をめぐっていた。彼女が消えたように思えなかった。
目を閉じたままに、ほどよい時間に身を任かせていたらば、喉の辺りに気持ちほどの軋みを立てた。意識と無意識との境界を往来したのだろう。衝撃が心地良すぎて、寸秒置いたのちに我に返った。帰還を称えるように静かに瞼がひらかれた。
明るすぎる漆喰の壁と、目下にはスポーツバッグが置かれてあった。机を端によせて座っていた。開いたバッグの口には見たことのない柄のシャツやポーチが整理されてあった。ちょっと驚いた。試しにくすんだ色のバスタオルをたたみ始めた。スムーズに手は動く。だがまだ体の奥のほうから染み出す微かな痛みが感じられた。それは尾をひく深い悲しみであった。僕はこの痛みが何を指すかをはっきりとわかっていた。しっぽをみせるにすぎないこの痛みは、空いた心に何を埋めるべきかを伝えていた。今までと確実に違う僕がいることをわかっていた。
時刻は2時を過ぎていた。
ひとたび覚醒した気を沈めるのはあまりに困難だ。
それでも明かりのもと、はじめて満足げに泣き笑いをしたい気持ちがあった。鼻をすすって我慢をしたもののあらゆるところに気持ちがこぼれ出た。しかしながら、この気持ちを掻き消す感情の進み行きもまたやって来る。迫りくる夜明けや断続した歯の痛み、室温に神経質になるなどあまりに現実すぎる患いが中央を占める。例え一時追っ払おうがこれらは本来あるべきところに収まる。あからさまな不可避の運命だ。変わったはずの僕はこのようにして普段の僕にゆっくりと戻る。
―――翌朝、開け放しの門のところを一歩一歩、踏み締めるように出た。2キロは要する最寄りの駅までをスポーツバッグを肩手に歩いた。両脇を田園に、真っ直ぐの道を歩いた。雲一つない広大な空だった。ちょうど遠くの高架線から山間を覚ます音がした。大きく開いた瞳は遠のく列車の活き活きとした動きを目で追った。
踏切の手前、これまでは一度も見ることはなかった寺に目を遣った。みすぼらしい立札によればどうも出産祈願らしい。列車の発車時刻まで立札の崩した字体を必至に読んだ。時刻が来て屋根のないホームに立って休んだ。目の前にやって来た列車の強風を顔に受けた。とても心地のいい気分がした。だんだんと速度を落とす車体に映ったわが身に、いい加減に彼女を思った。
―――彼女はけなげだった。台所に立ち、電灯を頭に浴びつつ茶碗を洗っていた。ときに横顔は、無防備に寝息をついた。どれもこれも事実だった。
諦めに似た和解を列車の香りの裡側でした。電車の扉はあいた。